世界遺産の湯は日に七度色を変える:湯の峰温泉「つぼ湯」の神秘と熊野信仰
熊野古道に佇む、世界遺産の湯「つぼ湯」の神秘
日本の数ある温泉地の中でも、特別な存在感を放つ場所があります。紀伊山地の霊場と参詣道の一部として世界遺産に登録されている熊野古道の奥深く、湯の峰温泉に湧く「つぼ湯」です。この小さな共同浴場は、日本で唯一入浴が可能な世界遺産としても知られています。しかし、「つぼ湯」の魅力はそれだけに留まりません。古くから伝わる、ある神秘的な伝承が、この湯をより一層特別なものにしています。それは、「一日に七度、湯の色が変わる」という言い伝えです。
日に七度色を変える湯の謎
湯の峰温泉を流れる湯の谷川のすぐ傍らに位置する「つぼ湯」は、岩の割れ目から自然湧出する源泉をそのまま利用した、約二人ほどが入れる小さな湯船です。源泉の温度は非常に高く、利用する際は冷たい沢水を加えて温度を調整する必要があります。
ここに伝わる「日に七度色が変わる」という伝承は、科学的な根拠が明確にあるわけではありません。しかし、実際に訪れる人々の中には、湯の色が透明に近い色から白濁したり、青みがかったり、緑がかったり、あるいは薄い褐色を帯びたりと、時間帯や天候、見る角度によって変化するように感じたと語る人も少なくありません。
この現象の背景には、湯に含まれる成分の物理的・化学的変化や、自然光の差し込み具合などが影響していると考えられます。しかし、古の人々は、湯の色が変わる様子を自然の神秘や神仏の力と感じ取ったのではないでしょうか。このような伝承が生まれたこと自体が、湯の峰温泉が持つ特別な雰囲気や、人々がこの湯に寄せる畏敬の念を示していると言えます。
熊野信仰と湯垢離場としての歴史
湯の峰温泉の歴史は非常に古く、開湯は1800年以上前に遡ると伝えられています。開湯の伝承としては、応神天皇の時代に木こりが発見したという説や、役行者、あるいは弘法大師が開いたという説など、複数の言い伝えがあります。中でも、薬師如来のお告げによって発見されたという伝承は、湯の峰温泉が古くから病を癒す薬湯として知られていたことを示唆しています。
そして、湯の峰温泉の歴史を語る上で欠かせないのが、熊野信仰との深い結びつきです。平安時代から多くの人々が天皇や上皇をはじめとする皇族、貴族、そして庶民に至るまで、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への長大な巡礼の旅、すなわち「熊野詣」を行いました。
この熊野詣において、湯の峰温泉は重要な役割を果たしました。巡礼者たちは、熊野本宮大社への参拝を前に、この湯で身についた穢れを落とし、心身を清める「湯垢離(ゆごり)」を行ったのです。「つぼ湯」もまた、湯垢離場として利用されたと考えられています。清らかになった体で神域へ向かうことは、古の信仰において非常に重要な儀式でした。
湯の峰温泉は、湯垢離場としてだけでなく、長旅で疲弊した巡礼者たちが湯治によって体力を回復させる場所でもありました。古来より、この湯は病気や怪我に効能があると信じられており、多くの人々がその癒しの力を求めて訪れました。まさに、聖地へと向かう道のりの途中で、人々が肉体と魂をリフレッシュさせる「再生」の場であったと言えるでしょう。
伝承が語る、人と自然、信仰の物語
「日に七度色が変わる湯」の伝承は、単なる不思議な話として片付けられるものではありません。それは、自然の神秘的な現象を前にした古の人々の感性や、この湯が持つ特別な力を信じる信仰心が生み出した物語です。そして、その物語は、熊野信仰という壮大な精神文化、過酷な巡礼の道のり、そして湯治という形で自然の恵みに感謝し、共生してきた人々の営みと深く結びついています。
現代に生きる私たちにとって、「つぼ湯」とそれにまつわる伝承は、単に珍しい観光スポットを超えた価値を持っています。そこには、デジタル化された日常から離れ、古の巡礼者たちが感じたであろう自然の力、湯による癒し、そして信仰の深さに触れる機会が隠されています。湯の色が本当に七度変わるかどうかに固執するのではなく、その伝承が生まれた背景にある人々の心、歴史、文化に思いを馳せることこそが、この湯の真髄に触れる体験と言えるでしょう。
湯の峰温泉への訪問を考える
湯の峰温泉を訪れる際は、熊野本宮大社や熊野古道散策と組み合わせて計画するのが一般的です。湯の峰温泉へは、JR紀勢本線・新宮駅や紀伊田辺駅、あるいは紀伊勝浦駅からバスを利用するのが主なアクセス方法となります。本宮大社からはバスで数分、徒歩でも約30分程度の距離にあります。
「つぼ湯」は人気が高く、限られた時間内での利用(一人30分)と混雑が予想されます。時間に余裕を持って訪れるか、利用時間外でも湯の谷川沿いからその様子を眺めるだけでも、独特の雰囲気を味わうことができるでしょう。また、「つぼ湯」以外にも、源泉かけ流しの公衆浴場や、高温の源泉を利用して卵や野菜を茹でる「湯筒」などがあり、温泉地の文化に触れることができます。
この地で古の巡礼者たちが湯浴みし、祈りを捧げた情景を想像しながら湯に浸る時間は、きっと忘れられない体験となるはずです。
(注:湯の色が日に七度変わる現象は伝承であり、必ずしも全ての訪問者が明確な変化を確認できるものではありません。湯の利用状況や自然環境によって異なります。)